ビジネスわかったランド (ビジネスマナー)

つい、使ってしまう、ちょっとおかしな表現

愛犬は「死ぬ」のか、「亡くなる」のか

言葉の価値が下がると、乱暴に聞こえる

「先週、うちのペットが亡くなったんです」
「亡くなる」は「死ぬ」の婉曲な言い方です。通常は、人の息が絶えて、命が無くなり、この世から消えることを言います。どんなに丁重に話したくても、人の死の話ではないとき、すなわち、「蝉は地中から出てきて1週間で死ぬ」「あの人は目が死んでいる」「ここにこの色を持ってくると、ほかの色が死んでしまう」の「死ぬ」を、「亡くなる」で置き換えることはできません。

ところが、最近、人間の場合だけでなく、ペットの死の際にも「亡くなる」を使う人が増えてきました。「母が亡くなって10年になる」「ご隠居さんが亡くなった」と言うのと同じように、「可愛がっていたワンコが亡くなって、悲しくてたまらない」と言うのです。家族の一員であった愛犬のことを話すのに、「犬が死んで」などという思いやりのない冷たい言い方はできないのと、目の前の相手に丁寧に話したいということから、「亡くなる」が採用されます。

ほかの人が飼い主に向かって話すときも同様で、「お宅のワンちゃん、亡くなったんですって?」と尋ねます。「お宅の犬、死んだんですって?」などと言ったら、その時点でそれまでの友好的関係が途絶える恐れがあります。「亡くなる」を使うことによって、犬の死を悼み、飼い主の気持ちに寄り添っているという意思が示されるのです。

これは、このところの日本語の丁寧語化現象の一つであり、ずっと前からそうだったわけではありません。身内の死についても、「去年祖父が死んで」と「死ぬ」が使われていました。自分自身のことに関しては、「私が死んだら」のように言うのが普通でした。しかし、今では、「私が亡くなったら」と言う人がいます。

言葉が丁寧になったのは、日本人が丁寧になったというより、非常に気をつかうようになった結果だと思います。より厳密に言えば、気をつかわなければいけないと思い込んで、直接的な物言いを避けるようになったのです。丁寧な言葉づかいをしていれば、摩擦は起きずに無難に過ごすことができ、感じのいい人だと思ってもらえるに違いない、ということでしょう。

したがって、相手に気をつかう必要がない場合は、「亡くなる」になりません。家族に向かって話すときには、「お向かいのワンちゃん、死んじゃったんだって。かわいそうに」という具合です。

また、比喩、慣用表現、受身、使役として使われるときも、「死ぬ」のままです。「おなかがすいて死にそうだ」「疲れ果てて死んだように眠る」「死んでも死にきれない」「死んだ子の年を数える」「一家の大黒柱に死なれて、家族は途方に暮れた」「私の不注意でこの子を死なせてしまった」などです。

敬意逓減の法則

日本語には、「敬意逓減の法則」があると言われています。その昔は尊敬語だった「貴様」「御前(おまえ)」などの価値が下落し、「貴様」を使うのは、一部の男性が喧嘩相手を罵るときぐらいになりました。

「貴方(あなた)」の価値も下がり、目上の人に対して使うことはできません。かつて、外国人向けの日本語教科書には、「あなたはどこに住んでいますか」などと書いてありましたが、現在はこのような形で教えることはありません。外国人学習者が「あなた」を連発して、相手の日本人に疎んじられては気の毒だからです。

ほかにも、「孫にお年玉をやる」「ペットにエサをやる」「花に水をやる」の「やる」を好まない人が多くなりました。「やる」は、自分と同等かそれより下の人間、および動植物に対して何かを「与える」という意味ですが、同等の人間はおろか、下の者や動植物にも使わなくなってしまったのです。乱暴に聞こえる、品がないという理由で「やる」を避け、代わりに「あげる」を用いる人が増えてきました。「やる」の転落にともなって、「あげる」も一段降りてきたのです。

花に水を「あげる」ようになると、「水やり」は「水あげ」になります。小学校の教室の黒板に「水あげ当番」と書いてあるのを初めて見たとき、少々複雑な心境になったのを覚えています。私のイメージする「水揚げ」は漁獲高や売り上げ高で、そうでなければ、夜の商売で使われる、小学生にはふさわしからぬ言葉だったからです。

野口 恵子(文教大学非常勤講師)